本宮の映画と伊藤家 | ||
『本宮町史11』 第三章娯楽 映画 p512 P512 日本の映画は1896年(明治29年)ルミエールのシネマトグラフやエジソンのバタイスコープなどの映写機やフィルムが輸入されたのにはじまる 本宮地方で興行的に「活動写真」が上映されになったのは、1914年(大正3年)5月に本宮座が建設されてからである |
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p513 1935年大正14年ころ制作された「本宮の花」は、35ミリ、モノクロ・サイレントで、当時本宮駅前で『福島民報』などの新聞販売店を経営していた冬室八郎の呼びかけで作られたものである。この提唱に応じて、すでに故人となった伊藤幟(のち県議会議長・衆議院議員)・三浦倉治郎(清滝荘初代主人)・菊田芳雄・野内雄一(シミズ自動車)らの有力者が協力して、東京の日活映画会社から専門家を招いて撮影した。「本宮の花」のタイトルで始まり、完成まもない役場庁舎、本宮電機(株)ビル、本宮駅、小学校、警察署、本宮銀行、本宮病院、蛇の鼻公園、清月荘、長岡製糸工場、大天狗酒造、安達太神社などを、当時の人々を入れて生き生きと映しだしている。当時のさまざまな服装をした商店主や従業員、会社員、人力車夫、子供たち、芸者衆などが、表情ゆたかにカメラに収められていて楽しい。生まれてまもない現町長、伊藤備文が両親に抱かれている場面もある。 本宮町としては貴重な文化財であり、1978年(昭和53年)町ではこの映画を16ミリフィルムに再生プリントし、上映時間20分の映画として保存してある。 ![]() |
映画「花の本宮」には伊藤備文もと町長が両親に抱かれている場面もある もしかすると 伊藤家の外観や暮らしりが写っているのではないだろうか? 是非 鑑賞させていただき機会をもうけてほしいものだ |
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■昭和期の本宮地方を舞台にした商業映画 本宮町史11 p514 本宮を舞台にして制作された「警察日記」は本宮市民にとっては忘れられない映画である。 警察日記(35ミリ、モノクロ、トーキー)は1954年(昭和29年)に作られた。久松静児監督 森繁久彌主演、沢村貞子・三国連太郎・二木てるみ・などの日活映画で、駐在所勤務の警官と町民の心あたたまる交流を軸に、人情味あふれる内容の劇場映画である。 ![]() |
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映画 「こころの山脈」 (本宮町史11 P515) 本宮方式映画教室運動が母体になり、町民あげての協力で、1966年(昭和41年)に製作された「こころの山脈」は、本宮町にとってはもちろんであるが、日本の映画史上も特筆される作品である・・ P786 (p785本宮方式映画教室ー「こころの山脈」) 1965年(昭和40年)4月29日、この運動の土台の上にたって、自主映画の製作を本宮方式映画製作の会が発足・・・ 1965年12月26日「こころの山脈」完成特別試写会が本宮中央館で行われた。 地域視聴覚教育におけるこれほどの成果は、わが国でもかってなかったことであるといってよい。まさに文化のモニュメントとなった事業である。 町史11 P 785 本宮方式映画教室と「こころの山脈」 昭和30年代、映画がまだ娯楽の中心を占めながらも、内容としては曲がり角にさしかかり、いわゆる俗悪映画が多数つくられるようになっていった。 1956年(昭和31年)本宮小学校の岡部司を中心として、視聴覚係の教師たちは、良心的な映画の上映運動をおこなっていた母親たちと連携し、映画館 橋詰政雄(中央館)と協議を重ねて、新しい「映画教室」運動をつくりあげた。・・・ ・・・この運動は『育ちゆくものの記録』)発行本宮小学校PTA・編集本宮小学校、協賛本宮中央館)という年度こどにまとめを残している。 |
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町史11 p519 「わが町 78」(16ミリ・トーキー・40分)1978年(昭和53年)3月9日クランクインし、翌年1月15日クランクアップ、・・・わが町の姿を記録した自主製作映画である。「まちの姿を映画フィルムで後世に残そう」と本宮町が企画し、役場職員5人のスタッフが、三浦正博(プラザ満月社長)の指導で制作にとりくんだ・・・・ ・・・この映画を制作するきっかけとなったのは、大正末期の町のようすを記録映画「花の本宮」が前年の一月に町民から町に寄贈され、その試写会の席上で伊藤備文町長をはじめ、参加者が、古き良き時代の町の姿に感動し、現代版を作りたい(わが町78)と、三浦に相談があったとのことである・・・ 「わが町78」出演者 町長公室長 根本寛治、企画係長 真壁幸一、中央公民館 中村宮 広報広聴係 佐藤安雄、住民j課主事、大内秀夫、制作技術指導三浦正博 |
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p513 本宮座は、ほぼ常設的な映画館となり、町内外から多数の観客を集めた。 本宮座 町史11 P549 大正・昭和期の常設劇場 町民に長い間「定舞台」として親しまれた本宮座が造られたのは1914年(大正3年)の5月である ■本宮映画劇場 (旧本宮座) 閉館1914年(大正3年) 本宮市本宮字中条9 収容人員800人 最大1000人) ![]() 左絵:町史11 p437には 草野和夫氏の推論が掲載されている ■本宮座の以前には、右の記事にあるように森川座が在った可能性が高い(調査中) |
![]() 本宮座 開館1914年 大正3年 閉館1963年 昭和38年 ・ 町史3−p452には・・・ 劇場としては明治20年代前半まで定舞台(字仲条・森川座)があり「浦井牛之介日記の1891年(明治24年)9月12日付、板垣退助・河野広中・鈴木万次郎・平島松尾らによる自由党演説会が、ここで催された記事がある(『双書3』96ページ以下) |
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