花田達朗

■2021年9月1日
 東京大学情報学環「福武ホール」誕生秘話 


今から16年前、私が東京大学大学院情報学環長を務めていた頃の話である。

2005年4月22日午後7時、東京大学の部局長(大学院研究科長や研究所長)たちはBenesse会長の福武總一郎氏から銀座ソニービル地下3階のマキシム・ド・パリに招待された。私は、寄附講座の話しかなと思って、出かけて行った。入り口で、会長のほか、森本昌義社長、松本芳範取締役の出迎えを受けた。立食パーティーだった。ちょうど総合文化研究科長の木畑洋一さんと雑談していると、順番に出席者を回っていた福武会長たちが私のところにやって来られた。情報学環とは何をやっていて、どういうユニークな組織かというようなことをお話しし、質問を受けた。その終わりで、私は「ただ、今一番困っているのは物理的空間の問題です。バーチャルな組織論で始めたのはいいのですが、現実にはやはり建物が必要です」と話した。すると、福武氏の顔がちょっと変化して、関心のサインが出た。「建物がないんですか。それが要るんですね」と念をおされるように言われた。それに私が頷くと、福武さんは「ちょっと待っていてください」と言って、社長たちを連れて別室に下がって行かれた。しばらくして戻って来られて、私に「その話、本気で考えてみましょう」と言われた。つまり建物を寄付する意向があるということである。その間、わずか30分くらいの出来事であり、その展開のスピードに私はびっくりした。

それは金曜日の夜のことで、翌週月曜日午前中にちょうど科所長会議(研究科長及び研究所長の会議)があり、その日の午後私は小宮山宏総長に会った。佐々木毅前総長を引き継いで、その年の4月に独立法人化した東京大学の総長に就任されたばかりだった。出身部局は大学院工学系研究科・工学部。副学長時代から会ったことはあるが、快活な性格の合理主義者という印象を持っていた。太っ腹なところがあって、私個人は話しやすかった。私は福武会長にお会いしたこと、建物の寄付というご意向があることを説明し、「総長、土地を用意してください。建てる土地がなければ話になりません。それから、建物に寄付者の名前を冠することを認めてください」と言った。小宮さんは「よし、わかった。花田さん、1週間ほど時間をくれ」と言われた。1週間後に総長室に行くと、小宮山さんの返事は「土地は用意した。赤門の横の土地だ。法科大学院が建っているでしょ、あの横!」で、びっくりした。何と早いアクションだろう。

私は本部の営繕係にその土地の面積に文科省の上質基準で建物を建てるとするといくらかかるか、計算を依頼した。すると、4階建の建物が建ち、総床面積はこれこれで、上質基準の単価で計算して総額16億5000万円だという返事が返ってきた。次に福武さんにお目にかかって、土地が用意できたことをお伝えした。そうしたら、「寄付額をいくらにするか考えているんだけれど、いくら必要ですか」と尋ねられた。私はとっさに「16億5000万円です」と言った。福武さんは「そうですか。ちょうどそれくらいの額を考えていたところなので、その額にしましょう」と言われ、私は「ありがとうございます」と述べた。そこで寄付額が即決した。たった2往復の会話で決まった。私は額を探るような交渉をする考えはなかった。

その後は西尾茂文副学長と話し合いながら、事を進めた。福武さんは米国のMITなどにも高額の寄付をされていて、米国の大学の資金調達方法に詳しかった。まさに日本の国立大学も独立法人化のもとで文科省からの交付金にのみ依存するのではなく、寄付などの外部資金の導入を迫られていた。福武さんは私にこう言われた。「私は建物の建設費用を寄付します。そのほかの費用、内部の電子設備や調度などはほかの寄付者を募ってください。ミックスファイナンスでいきましょう。」 寄付されるだけではなく、ほかに宿題も出されて、われわれを米国大学式の資金調達の仕方へと誘導されたのだった。そこで、施設検討ワーキングを作り、准教授たちにその仕事を担当してもらった。

福武さんは、設計は安藤忠雄さん、施工は鹿島建設と決めていた。安藤さんはその頃工学部建築学科で教授をしておられた。その設計を安藤忠雄建築研究所がボランティアで引き受けられたと聞いた。つまり設計料を辞退された。建物の名称は、総長の同意を得て、寄付者の名前を冠して「福武ホール」となった。

その年の12月12日午前11時に大学本部で記者会見が設定された。福武会長と小宮山総長が並んで着席して、大学院情報学環への寄付が発表された。決断の早いお二人がニコニコして並んでいた。その直前に、記者に何か絵があったほうがいいのではないかと福武さんに言われて、私は安藤さんにスケッチか何か描いてくださいと頼んだ。急な依頼にも関わらず安藤さんはすぐに水彩画のような絵をメールで送ってくださった。それをコピーして記者にも配布した。福武さんに広報対応までを教わったわけだ。
 
ところが、その絵をよく見ると、1階建てなのである。なるほど、地下に埋めるわけか。その頃安藤さんは瀬戸内海の直島の美術館でも(美術館の天窓部分だけが地上に出ている)、またその当時建設中の表参道ヒルズでも(欅並木よりも高い建物は建てない)、何でも地下に埋めていた。その絵からすれば、講堂全体を地下に埋めて、地上1階の研究室スペースを設けるということだ。私は安藤忠雄建築研究所の安藤さんと岩間さんに長い手紙を送り、「建築ファンとして個人的には斬新でいいと思うけれども、部局長としてはこれでは困る」と書いた。研究室スペースの不足解消に役に立たないからである。俗物的な理由で建築家のデザインに異議を唱えるのは十分に気が引けたけれども、私にとって背に腹はかえられない。やりとりがあって、地上部分は2階建てにすることで決着した。

他方、課題のもう一つ、組織の脆弱性を解消し、安定性を獲得するという課題はどうなったか。ここでも私は小宮山総長に助けられた。小宮山さんは文理融合の新組織の将来に理解があり、何とか軌道に乗るようにと案じておられた。そして、西尾副学長、桐野豊副学長からも好意的なご支援を得た。私は何度もその3人の方々を大学本部に尋ねた。幸い、情報学環は本部に近かったから、同じ道を通学路のように通った。普段は歩いて、約束に遅れそうな時は自転車で。結局、総長はいわゆる「総長手持ちポスト」(総長の裁量で使える人事枠)を使って、情報学環の基幹教員の定数を増やすなど、「組織基盤」を整備し強化する策を取られた。その新しい定員枠は翌年の2006年度から発効した。









絵:webより 福武ホール
福武ホールをアイメーションで見る

こうして私は学環長の2年目、二つの懸案について当面の是正の道筋をつけることができた。「福武ホール」の実現と情報学環の「基盤強化」は総長が小宮山さんであったこと、大学が独立法人化していたこと、この二つの条件のもとで初めて可能だったと私は思っている。

赤門横の、レンガの塀に沿った細長い土地では、やがて私の好きだった樹木が大変申し訳ないけれど伐採され、白いテントで囲われて埋蔵文化財調査が始まった。2006年3月の終わり、私は情報学環長の任期満了とともに東京大学を退職し、本郷キャンパスをあとにした。その日は雨だった。その土地の横を歩いてみたが、調査はそぼ降る雨の中でまだ続いていた。

(花田達朗ジャーナリズムコレクション 第4巻『メディアの制度論と空間論――両義性の葛藤――』、年譜(4)、彩流社、2021年、454-457頁、より転載)

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